AIを使って、
管理者の日報へコメントを返す仕組みを作っています。
日報をAIに読ませれば、
コメントそのものはすぐに作れます。
文章もきれいです。
褒めるところを見つけて、
前向きな言葉にまとめてくれます。
でも使い始めた頃、
「なんか違うんだよなぁ。」
と思うことがありました。
文章がおかしいわけではありません。
内容も間違っているわけではない。
それでも、
「私なら、そこを見ないな。」
「そこを褒めて終わりにはしないな。」
と思うことがありました。
そのときに気づきました。
私がAIに入れたかったのは、
きれいなコメントの書き方ではなかったんです。
私自身が、
「その人の何を見るのか。」
「どこを認めるのか。」
「次に何を伝えるのか。」
という判断の仕方でした。
同じ出来事でも、
相手によって返す言葉は変わります。
たとえば、
仕事の効率をとても大切にする人には、
結果だけではなく、
過程を丁寧に進めることを伝えることがあります。
反対に、
優しくて、
なかなか結論を出せない人には、
「ちゃんと結論を出さないと、
周りが困ることもあるよ。」
と伝えることがあります。
同じコメントで、
全員に刺さるわけではないんですよね。
だから私は、
過去の日報。
これまでの面談。
その人と話してきたこと。
以前、何を伝えたのか。
その人がどんなところで迷いやすいのか。
そんなものを重ねながら、
コメントを考えています。
でも、
それを全部言葉にできるかというと、
最後は、
「感覚になるかもしれない。」
と思うところもあります。
その中でも、
私がかなり大切にしているものがあります。
「違和感」です。
日報を読んでいると、
文章としては何もおかしくないのに、
「なんとなく歯切れが悪いなぁ。」
と思うことがあります。
特に、
人間関係のことは、
日報にそのまま書きづらいですよね。
誰かと仕事がやりづらい。
何か引っかかっている。
本当は困っている。
でも、
それをはっきり書かずに、
少しオブラートに包んで書くことがあります。
そんな文章を読んだとき、
「何かあるなぁ。」
と思って本人へ確認すると、
実際には仕事がやりづらくなっていたことが分かる。
そんなことがありました。
今のAIコメントも、
少しずつ私の判断に近づいてきています。
褒めて終わるのではなく、
「では、次はどうするか。」
まで考えてくれるようになりました。
私がこれまで書いてきた判断基準に沿った内容が出てくると、
「あ、だいぶ私らしくなってきたな。」
と思います。
でも、
「歯切れの悪さ」
までは、
まだ拾えません。
「歯切れの悪さまでは、まだ拾えないね笑
それが拾えるようになったら、すごいなと思うよ。」
そんなふうに思っています。
そして、
AIがかなり自分らしくなってきても、
私は最後に必ず確認します。
日報だけでは見えない背景がないか。
過去に同じことを伝えていないか。
法律や制度に関わる内容に間違いがないか。
AIが書いたコメントによって、
相手の判断を悪い方向へ動かしてしまわないか。
AIが作ったコメントを、
そのまま自分のコメントとして返すわけではありません。
最後に、
「これは本当に、私がこの人へ伝えたいことかな。」
と確認します。
AIに判断基準を入れていくことは、
AIを自分の分身にすることだと思っていました。
でも、
やってみて分かったのは、
それだけではありませんでした。
AIへ伝えようとすることで、
「私は普段、
何を見て判断していたんだろう。」
と、
自分自身の考え方が見えてきたんです。
今まで感覚でやっていたことを、
「なぜそう思うのか。」
「どこを見ているのか。」
と一つずつ言葉にする。
その言葉をAIへ入れていく。
すると、
AIが自分らしくなるだけではなく、
自分自身の判断基準も、
少しずつ見えるようになってきました。
そして私は、
この仕組みを、
誰もが私と同じ判断をするためのものにはしたくありません。
別の管理者が使うなら、
その人自身の判断基準を入れてもいいと思っています。
大切なのは、
AIに「正しい答え」を覚えさせることではなく、
その人が普段、
何を大切にして判断しているのかを
言葉にしていくことなのかもしれません。
🌱 今日の気づき
AIに入れたかったのは、
きれいな文章ではありませんでした。
「何を見るか。」
「何を認めるか。」
「次に何を伝えるか。」
という、
自分自身の判断基準でした。
AIへ判断基準を伝えようとしたことで、
逆に自分が普段何を見ているのかも、
少しずつ分かるようになりました。
AIを育てることは、
自分の判断を、
自分で知っていくことでもあるのかもしれません。
今日も、AIとともに一歩前へ。🤖
生長の日々。ー未来へつなぐ– 